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2007年 09月 28日
釜山国際映画祭が開催中の韓国の釜山に、観光ビデオの撮影で日本人の若い男が訪れる。言葉の通じないその街で、男はとても変わった日本人の女に出会う。
これは釜山国際映画祭のプロモーション映画なんだろうか?それにしては、今頃2005年の映画祭の様子を見せても意味がないし、劇場に2007年の映画祭のポスターも何もなかった。 おそらく何かしら、釜山映画祭で撮影するメリットはあったのだろうが、あまり戦略的な目的はなかったようだ。それよりも、映画祭にかこつけて映画を一本作ってしまおうという勢いで作られた映画なのだと思う。 映画を作るということだけが目的の映画。 そんな印象を受けた。 たぶん、映画を作る現場に居続けないと溺れ死んでしまう、そういう人たちがいるのだろう。映画を愛し、映画に生きている人によって作られた映画なのは、間違いない。 主人公のクリハラは、小さなビデオ制作会社の新人社員で、DVカメラ一台を手に、ひとりで釜山に観光ビデオの素材を撮りにいくことになる。飛行機代は出ないから、彼はフェリーで海をわたる。 「ボーイ・ミーツ・プサン」という映画自体もビデオで撮影されている。メインのカメラも、劇中でクリハラが持っていたDVカメラと同じか、ほぼ同等の性能の機材だろう。スタッフもフェリーで海を渡ったはずだ。 これは、低予算、ゲリラ撮影の、映画作りについての映画だ。 このやり方はアリだ。実際、最近の自主映画はほとんどこのやり方で作られているだろう。60年代にヌーヴェルヴァーグの若い映画作家たちが16mmのカメラを持ってパリの街に出たように、21世紀の映画作家はDVカメラを持って街に出る。 デジタル・ヌーヴェルヴァーグと呼ぶと、カッコよすぎるが、志はそういうことだ。 でもね。 そう書くと美しいしカッコいいけど、残念ながらこの映画、つまらない。 カメラを持って街に出ては見たが、何を撮ればいいのか分からず途方に暮れているようだ。それは劇中の、言葉の通じない街にひとり放り出されたクリハラの姿そのままなのだが、実際に映画を撮っている人間までが途方に暮れてしまってはシャレにならない。 とりあえず、映画はラブストーリー的物語を設定する。主人公は女に出会う。変わった女だ。でも主人公は彼女に惹かれて、ふたりは行動を共にするようになる。 見知らぬ街を歩く若い2人をカメラで追う映画というと「恋人までの距離〜ビフォア・サンライズ」を思い出す。あれは、奇跡的によくできた映画だった。イーサン・ホークとジュリー・デルピーの2人の過ごす時間が、素晴らしく魅力的だった。CDショップで2人が試聴するシーンなどを見ると、この映画を作った人の頭にも「ビフォア・サンライズ」のイメージがあったのかもしれない。 でも、釜山の2人はウィーンの2人のように魅力的にならない。男はひとりごとを言っているだけで、女にはまるでリアリティがない。リアリティというのは現実にいそうって意味ではなく、映画の中での魅力的な存在感のことだ。映画はここでも、クリハラと一緒になって、釜山にだけでなく女に対しても途方に暮れている。 童貞の映画好きの学生が書いたみたいなシナリオだ。 大学生のとき8mmなんかをいじっていたころ、上映会ってやつでよくこういう映画を見た。短ければいいが、長いやつはつらい。 俳優が悪いのではないと思う。 ヨーコという女を演じた江口のりこは、映画を見ている間は気が付かなかったが、テレビの「時効警察」に出ていた人だ。「時効警察」ではとぼけた味を出していた。でもこの映画では、その味は生かせていない。上映後の舞台挨拶を聞いたら、彼女は関西なまりだった。でも、ヨーコはまるで関西人のノリは見せていなかった。 シナリオは読んでいないが、たぶんシナリオのヨーコのイメージからいったらミスキャストなんだと思う。でも、この人で撮ると決めたら、その女優の味を撮ろうと努力するべきだ。女優にあわせてシナリオを変えたっていい。 特にこういう、「カメラを持って街に出る」式の映画では、街や人や、目の前にある素材の魅力を最大限に活用しなければ、おいしい料理にはならない。 すべての実写の映画は、ドキュメンタリーだ。 この映画は、企画の段階でおそらくドキュメンタリー的であることを自覚していたはずなのに、街に対しても人に対しても、まるで足を踏み込むことができていない。看板に変な日本語を見つけて喜んでいるだけのクリハラのビデオと変わりがない。 例外的にすばらしかった部分がある。 クリハラが泊まる釜山の安宿のオバさんだ。「風呂行け!」とか「あっち、あっち行け!」とか荒っぽい片言の日本語を話すオバさん。あのオバさんは本物だ。本当にスタッフが泊まった宿のオバさんだ。仕込んであんな味は出せない。 あのオバさんが出てくるところだけ、まるで自主映画に北野武の映画のワンシーンが紛れ込んでしまったように素晴らしかった。 最後、クリハラが帰国するときオバさんが「帰れ!日本帰れ!」と言って手を振るところの、あたたかさは感動的なほどだった。 あんないいオバさんを見つけて撮っておきながら、他の部分でそれが全然できていないなんて、なんてもったいない映画だ。オバさんが台無しじゃないか。 「映画を作ること」を目的にしてはいけない。大切なのは「面白い映画を作ること」だ。
by denkihanabi
| 2007-09-28 00:40
| 映画ネタ
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