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2006年 07月 23日
たぶん「ミツバチのささやき」を見るのは3度目だ。
でもこれまで私には、この映画が見えていなかった。今日はじめて映画が見えた。 めったにないことだが、そういうことがある。 以前見たのは学生のときと20代のいつかだったと思う。当時と今で一番違うのは、今は私にアナとイザベルみたいな子どもがいるということだ。 生と死のゆらぎについての感覚的な映画である。 「ふたりのベロニカ」に肌触りが似ている。 映画には魔法があり、そんな映画についての映画にもまた魔法が宿る。 スペインの片田舎の村の公民館にやってきた移動映画館の暗闇で、子どもたちが白黒の「フランケンシュタイン」に見入るシーンは、「ふたりのベロニカ」の人形劇のシーンにとてもよく似ている。 そこでは、スクリーンや舞台上の存在と、自分自身の体が、劇場の暗闇の中で溶け合っていく。瞳は一生懸命対象に見入っているが、自分の体の境界線は暗闇の中で曖昧になっている。 アナは姉のイザベルに、「どうして怪物は女の子を殺したの?」と聞く。姉は「ほんとは死んでないわ。映画の中のことはみんなウソだもん」と答える。でも、イザベルもまた自分のファンタジーを持っている。「怪物も死んでないの。私、森であの人を見たもの」そう言いながら、イザベルは現実に足を残している。幼いアナは違う。彼女には現実と幻想の境界線が溶け合ったままだ。 怪物は本当は精霊だと姉が言う。目を閉じて「私はアナ」と呼びかければ精霊に会えると。子供部屋のベッドの中でアナが呼びかけると、不規則な足音が聞こえてくる。それは本当は上の部屋を歩いている父親の足音なのだが。 (このあと、ストーリーを全部書いてしまっています。見ていない人はビデオでもいいので、見てから読んでください。) 学校の授業でドン・ホセという名前の稚拙な解剖図のような人形に、子どもたちが厚紙でできた内蔵をつけていく。ドン・ホセは生きているのか死んでいるのか分からない。 アナはドン・ホセに目をつけるように先生に言われる。生と死の境界が溶け合っているものの瞳。ドン・ホセの目は、アナ自身の黒いつぶらな瞳と重なる。 草原の中にぽつんと建っている井戸のある小屋に精霊がいるとイザベルは言う。アナは小屋に通うようになる。はじめアナには精霊が見えない。「いなかったわ」と報告するアナにイザベルは「やっぱりね」と言う。 だがある日、イザベルが隠れて見ていると、アナは誰もいない井戸の前で“何者かと交流している”。 たぶん、アナは違うことに気がついてしまった。死が自分の中にもあることに気がついたのだ。生と死は対立するものではない。生は死を内包しているのだ。あるいはその逆の可能性もある。 その事件の後、広場でイザベルたちが焚き火の炎を飛び越えて遊んでいる。アナは離れたところで見ている。 イザベルは死の存在を知りながら、ゆらぎのない生の側に自分がいると感じている。アナは違う。だから炎を飛ぶ遊戯をすることができない。 その夜、アナは家を抜け出して精霊に呼びかける。部屋に帰ってきたアナにイザベルは「どこに行ってたの?」と問いただすがアナは答えない。それを遊戯ととらえている姉に話すことはできない。 翌日、アナの精霊が井戸のある小屋に届けられる。 映画のシーンをこのように書き連ねてみると、まるで明け方に見た夢の話を書いているようだ。 瞳を見開いて夢を見る。 生と死、現実と幻想のゆらぎを、映画は繊細なイメージを積み重ねて見せていく。そのようなゆらぎを感じられる人がたまにいて、さらにその曖昧な感覚を目に見え耳に聴こえるように翻訳することができる人がごく稀にいる。監督のビクトル・エリセは、そんな数少ない人のひとりだ。 イザベルとアナの姉妹は「トトロ」の姉妹と歳が同じくらいだ。妹の方が精霊に出会うところも似ている。性格は全然違うけれど。 2人はよく囁き声で会話する。大人には聞こえない声で。 父親は歳をとっている。学者なのだろうか、ミツバチの研究をしているようだ。ガラス張りのミツバチの巣の中に、しかし彼は絶望を見ている。「幼虫を待っているものは過酷な労働だけだ。あるいは死。しかしそれは巣を遠く離れたところでしか訪れない」彼はノートに書き付ける。父親の部屋の窓の格子はミツバチの巣のような形をしている。この映画の舞台は1940年ころで、スペインの内戦から第2次世界大戦に向かう暗い時代だ。その時代背景が、彼の人生観に影を落としている。 母親は父親の年齢とつり合いが取れないくらい若く美しい。彼女は誰かに手紙を書いている。戦争で離ればなれになってしまった誰かに。どうやらその手紙は相手に届くことなく帰ってきたらしい。母親は手紙を燃やす。宛先はフランスのニースだったようだ。内戦のあと反ファシズムの人々の一部はフランスに逃れたという。ここにも戦争の影があるが、はっきりとは描かれない。 同じ家に住む4人の家族には、幸せな絆を感じる。だが一方で、4人は4人とも違う角度で世界を見ている。お互いの声、お互いの言葉は、届いていない。 イザベルとアナは、父親の本当の娘なんだろうか? 父親と娘たちがちゃんと会話をするシーンがある。キノコ狩りの場面だ。 父親は娘たちに、いいキノコと毒キノコも見分け方を教える。だがここにもゆらぎがある。いいキノコと毒キノコはよく似ていて、説明されても見分けがつかない。「どちらか分からないときは、取るな」と父親は言い、毒キノコを踏みつぶす。 だが2日目の夜、脱走兵はあっけなく射殺される。 懐中時計が父親の手に戻ったのを見て、アナは精霊に何かがあったのを知る。アナは井戸のある小屋に行き、そこで脱走兵が流した血を見る。 アナに現実の死が外部からやってくる。しかし、それは現実の死なのか?アナにとっては精霊の死だ。父親がアナを問いただしにくる。精霊を殺したのはお父さんだ。アナにはそう見えたはずだ。 アナは逃げる。父は、本気で追わなかった。本気で追っていれば、子どもが逃げられるはずがない。 夜、一人で森を彷徨うアナは、キノコを見つける。父が踏みつぶした毒キノコによく似ている。アナはおそるおそる、キノコに触る。 その後、アナはフランケンシュタインに会う。フランケンシュタインは死者から作り出された生者。ゆらぎはここで逆転を迎える。 アナがこの後、どんな人生を送るのか分からない。 生と死、外界と内面、現実と幻想が溶け合った時代はいずれ終わり、大人に成長していくのか。あるいは、「私はアナ」と精霊に呼びかける魂のまま体だけ大人になるのか。 たぶん、人間が100%子どものままでいることは不可能だ。でも、アナが感じてしまったゆらぎは、無意識の中にでもずっと残るんじゃないだろうか。そしてこの映画を撮ったとき30代前半だったビクトル・エリセは、その感覚を強く持ったまま大人になった人なのだと思う。 私は「ミツバチのささやき」について書きながら、最初に書いたキエシロフスキの「ふたりのベロニカ」ともう一本、デビッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」を思い出した。自分でも意外な連想だが、2人の女性、そして“ゆらぎ”というキーワードでつながっている。 ところで、この映画は日比谷シャンテでやっている「BOW30映画祭」で見た。ニュープリントで上映の予定だったらしいが、間に合わず古いフィルムでの上映になったらしい。1973年の映画である。もっとも日本公開は1985年だが。 その、古いフィルムがとても美しかった。ノイズも多く、粒子は粗く、つなぎにはゆれがあり、ときどきフォーカスアウトして見える。でもそのことが、映画の非現実的なゆらぎを、さらに深めていた。 作家のねらいを超えて、フィルムが表現を熟成させたようだった。 そんなところにも、映画の魔法がある。
by denkihanabi
| 2006-07-23 02:14
| 映画ネタ
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