カテゴリ
検索
以前の記事
フォロー中のブログ
映画・読書日記 レモ茶のお絵かき日記。 とりあえずどこかに シネマ親父の“日々是妄言” 嘆息熱気球(アーカイブ) 2+2=5 まいにち酒飲み *- Petit sou... the borderland befounddead 映画の心理プロファイル tropicalia ■■■ another unti... ◎ ○ O o 。_ 。... ::: C_i_N_E_... かたすみの映画小屋 酒の日々、薔薇の日々、本... t r a v e l ... シネマの手帖 僻眼から見た景色 スキマワード(ズ)/ni... keep going メカpanda乗りのメデ... conta備忘録 finn. ちょびまめにっき 最新のトラックバック
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2005年 12月 02日
鈴木清順の1964年の映画。
ものすごく演劇的。 演劇に、編集とクローズアップを持ち込むと、こうなるんじゃないか。 昔の映画はお芝居のような印象のものが多いが、これは特にシュールなほど演劇的だ。 同じように戦後の混乱期を描いた「仁義なき戦い」の荒々しいライブ感と、対称的だ。 主人公の娼婦達が「あははははっ」といかにも嘘くさい大笑いをしたり、セリフをやたらに強い調子でしゃべったりするのは、この頃の映画の特徴だ。セリフのリアルに対する考え方が、今とは違う。 この映画が特別演劇的な印象を与えるのは、演技もあるが、それよりも美術セットのせいだろう。木村威夫の美術がここでもまた、強烈な存在感を見せている。 この映画は当時としては大作だったのか、すごく力の入ったセットをいくつも組んでいる。そしてそれがまた、リアルなようでリアルじゃない。ねらったようにセットらしいセットなのだ。 特にマヤが神父を誘惑するシーンの遠景に見える描き割丸出しの教会、あれは間違いなくねらいだ。むきだしの欲望の前での信仰のもろさをセットで表現しよう、というわけだ。 この映画には娼婦たちの巣窟になっている廃墟をはじめとして、いくつかの印象的なセット/オープンセットが組まれているが、それぞれの場所の位置関係がいまいち分からないのが面白い。例えば、あの廃墟の階段を昇ると外には運河があって船が浮いているらしいのだが、廃墟と運河がどういう位置関係なのかよく分からない。編集が荒々しく場面転換するように、それぞれのセットが独立して主張していて、バラバラに存在しているみたいだ。 色彩も非常にはっきりと色分けされている。4人の娼婦には4色の色が与えられていて、衣装が変わっても色分けは最後まで変わらない。 4人が、それぞれ宍戸錠演じる流れ者の新太郎への思いを語るシーンでは、4人の衣装の色と同じ色の背景に4人を配してみせる。ここもとても舞台的なシーンだった。 一方で、映像的に面白かったのは、ときどき現れる奇妙なオーバーラップだ。娼婦の1人マヤが新太郎に死んだ兄の面影を感じたとき、階段を昇るマヤのカットに赤鬼のおめんを頭にのせた宍戸錠の映像がダブって浮かび上がり、消える。 これは最近「ロスト・エンゲージメント」でジャン・ピエール・ジュネが多用していた手法と同じだ。でも「肉体の門」の時代には当然デジタル合成などなかったので、ダブルイメージにいかにも手仕事的なブレがあって、それが現代の目で見ると味なのだが、公開当時は相当斬新な手法だったんじゃないか。 4人の娼婦たちは「シン・シティ」の娼婦たちのようにパワフルだ。 娼婦たちは戦争で身寄りを失った、不幸な社会的弱者なのだが、攻撃的なほどの姿勢で逆境と闘っている。黒澤の映画の弱き者たちのように(「七人の侍」の農民たちのように)めそめそ泣いたりしない。タフでドライで凶暴だ。 マヤに誘惑されてマヤとセックスしてしまった黒人の神父が、自殺体で川から引き上げられたとき、マヤはかつて自分のために祈ってくれた神父の死に、唾を吐きかけ立ち去るのだ。カッコいい。このシーンは好きだ。 娼婦のリンチのシーンは団鬼六のSMみたいで、ちらちらとヌードも映るし、これも公開当時は相当刺激的だったのだろうが、実はこの映画で一番エロいのは、女の裸ではなく、宍戸錠の肉体への女たちの視線である。宍戸錠の演じる無軌道な復員兵新太郎はほとんどいつも上半身裸で、女たちの巣窟に汗ばんだ筋肉質の体をさらしている。 自分たちが定めた掟のために、この男に手を出せない女たちの、煮詰まった悶々とした空気がエロかった。こういう女の視線を描いた日本映画は少ないような気がする。 「肉体の門」とはずばりヴァギナのことなのだろうが、その門の向こうにあるのは、愛、というような甘い結論の映画ではない。
by denkihanabi
| 2005-12-02 23:26
| 映画ネタ
|
ファン申請 |
||