カテゴリ
検索
以前の記事
フォロー中のブログ
映画・読書日記 レモ茶のお絵かき日記。 とりあえずどこかに シネマ親父の“日々是妄言” 嘆息熱気球(アーカイブ) 2+2=5 まいにち酒飲み *- Petit sou... the borderland befounddead 映画の心理プロファイル tropicalia ■■■ another unti... ◎ ○ O o 。_ 。... ::: C_i_N_E_... かたすみの映画小屋 酒の日々、薔薇の日々、本... t r a v e l ... シネマの手帖 僻眼から見た景色 スキマワード(ズ)/ni... keep going メカpanda乗りのメデ... conta備忘録 finn. ちょびまめにっき 最新のトラックバック
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2005年 10月 08日
ブスな女が物語が進むにつれ、だんだん可愛く見えてくる映画というのはときどきあるが、この映画はきれいなはずの柴咲コウがだんだん本当にブスに見えてくるという、とても珍しい映画。
冒頭から、柴咲コウが演じる沙織は化粧っ気もなく肌の荒れた、零細塗装屋の地味な事務員として登場する。性格も暗く、要領も悪い。あの肌荒れはメイクなんだろうか、すごくリアルだった。でもやっぱり柴咲コウだから目はでかいし、造形は可愛いのだ。 物語の前半は、いくら柴咲が地味で性格のねじ曲がったブスを演じても、でもやっぱ基本的にはきれいで、そうはいっても男はほっとかないよなという感じがしている。地味なのにきれいな女というのは、ソソるものだ。 オダギリジョーが演じるゲイの春彦と、そういう関係になりそうになるところでも、やっぱなー、はぐれもの同士とはいえ美男美女だもんなー、と思ってしまう。 でも、それはあくまでもタレント柴咲コウの顔の美醜の問題で、沙織の心の変化が表面の変化に表れたとかそういう次元の話ではない。物語の中の沙織は、ずっとブスのままだ。むしろ、沙織のブスが柴咲の顔を浸食してきて、笑っていても可愛く見えなくなってくる。 そして、後半、沙織がメゾン・ド・ヒミコのオカマじいさんたちと仲良くなって、でも最後に決定的な決裂と、裏切りと、失敗をしていまうとき、彼女は醜いのだ。心も顔もブスに見える。 これは、映画としては意図した成功なのか?それとも失敗なのか? たとえば、主役が柴咲コウじゃなくて、もっと目がはっきりしないフツーッぽい顔の女だったら、この話はどんな風に見えたのだろう。 私は見ている間、「ミュリエルの結婚」と「プリシラ」という2本のオーストラリア映画のことが、頭の隅にチラチラと浮かんでいた。この主人公はミュリエルのダメさと激しさに比べてどうだろう。このオカマたちは「プリシラ」のオカマのようでないのはなぜだろう。 それに、物語の中盤でえんえんと続くクラブ(ってゆーかディスコだろ、あれ)のシーンのイモくささがオーストラリア映画のイモくささに似ているのはなぜだろう? プロデューサー、監督、脚本、撮影は、「ジョゼと虎と魚たち」のチームである。 沙織にはジョゼの匂いを感じる。猫背で見上げるようにキツイ視線を放つ。孤独を受け入れていながら、繋がりへの甘い予感、に弱い。ジョゼは不具者だったが、沙織は身体的には健康な女だ。 でも、沙織はジョゼ以上に心が歪んでいる。 そのことは、彼女がオカマの館メゾン・ド・ヒミコに来て、一層明らかになる。 オカマしかいない社会で、唯一の正常な女性である沙織は、不具者だ。彼女の考え方は異端で、彼女のセックスは受け入れられない。たとえ心が通っていたとしても。 でもほんとうは、彼女は外の世界でも、そうなのだ。 これは、監督というより、脚本の渡辺あやの持っている、人物造形なんじゃないかと思う。 この映画、オカマの映画にしては湿っぽすぎる。まあ、オカマとはいえ老人ホームの話なので、仕方ないかもしれないが。あるいは、アモルドバルの映画のゲイのようなバイタリティを日本映画に求めても、だめなのか。 それにしても、この映画で描かれる、男と男のセックスも男と女のセックスも、全然、幸福そうでないのはなぜなんだろう。 あれだけゲイの老人がいて、誰も性の快楽と幸福を詠わないのはなぜだろう。沙織は彼らのひとりに、「女性としたことはありますか?」と聞くが、なぜ「男同士ってどうなんですか?」って聞かなかったんだろう? すごい濃厚でハッピーな話が聞けたかもしれないのに。 そしたら、いじけた沙織も元気になったかもしれないのに。 少なくとも、笑わなきゃ恥ずかしくて聞けないような話だったに違いない。そういうエピソードが、この映画にはない。いかにもオカマなルビーちゃんも、なにか痛々しいエピソードのように描かれる。あのパワーが痛々しさを突き抜けなければいけないのに。 だいたい、犬童一心が撮るキスシーンは、なんかいつもベチョベチョしている。キスシーンをベチョベチョに撮る秘訣ってなんだろう? この映画では、一回もセックスシーンは描かれないが、セックスの前章としてのキスは何回か描かれる。それが、すべて不幸そうなんだ。 冒頭近くの、沙織の同僚の事務員と会社のボンボン専務とのキスも、沙織と春彦のキスも、それにもちろん沙織と専務のキスも。キスシーンはないが春彦が、メゾンのスポンサーの老人と金のためにしたセックスを語るシーンも不幸そうだし、春彦が専務を誘惑しようとする話もなぜか不幸そうだ。 春彦は、ヒミコに会うまでひとりぼっちだったと言うが、じゃあヒミコとは幸福なセックスをしたのだろうか?あるいは、幸福な瞬間を過ごしたのだろうか?あったはずだ。でも、そこが、見えない。 なぜか、セックスにみんな罪の意識を持っているような映画なんだ。 「ピアノ・レッスン」を思い出した。あの映画は、すごくよくできていて美しいが、私は嫌いだ。セックスの快楽を罪だと思っている人間の物語だから。 私はラテンの映画の方が好きだ。 あれだけ、人生経験のあるしかもゲイという、性愛について他人とは違う道を選んだ人間たちが暮らしていて、豊かな歓びについて何も語らず、何も匂わせないなんて、全然つまらない。 キスがベチョベチョに見えるのは、そこに官能がないからだ。恐れと自虐だけしかないからだ。 メゾンと春彦から逃げ帰った沙織が、(心では軽蔑している)ボンボン専務とセックスするのは、自分を虐める行為以外の何物でもない。 ヒミコが初めて登場するシーンの存在感は素晴らしい。ヒミコは最初、娘を忘れている。「あたらしいアルバイトの人?」とヒミコは言う。あの冷たさが、素晴らしい。 でも、ついに映画を通じてヒミコが二階から降りてこないのが、残念だった。いや、ヒミコは降りてこなくてもいいのかもしれない。 メゾン・ド・ヒミコの住人は、みなヒミコを信奉、いや言葉が適切でないな、こういう場合なんと言うんだっけ、尊敬と感謝と愛情と近親憎悪、心を許した部分と距離感をはっきり保つ部分を両方持った葛藤をともなう、そういう気持ちを、みなヒミコに対して持っているはずだ。 その彼らの、ヒミコとのつながりが、ついに描かれなかったのが、すごく映画を分かりにくくしていると思った。 沙織も、自分を捨てた父親であり、彼女が入りこんだ新しい状況の盟主であるヒミコとの関係をついにクリアにできない。最後までヒミコが超然としているからだ。 でも、沙織は、自分を受け入れず、自分もまた受け入れなかった父親との関係を、ついに修復できなかったが、父親が作ったコミュニティに受け入れられた。 誰かの親が死んだんだと思う。 実話だという意味ではないし、もちろん、まったくの創作かもしれないけれど。 親っていうのは、意外と最後まで子供にはよくわからない人間だったりするものだ。 最後まで分からないという点において、ヒミコはいい父親で、リアルな存在なのかもしれない。物語としては不満を感じるけれど、それはハリウッド的な不満で、ここは日本だということかもしれない。 二階から降りてこない父親、信じていたのに二階と通じていた母親、そこには確かにリアルな曖昧さがある。 ブスな沙織は、ついにきれいな沙織に変身しない。ブスな沙織のまま、コミュニティに受け入れられる。そこは、愛情はあるがセックスは成立しない社会。 それでいいのか?いい話のようだが、なんか納得いかない。なんかね。 物語の中ほどで春彦が「愛なんてうそじゃん、欲望だよ、欲望が欲しいんだ」と言う。普通は快楽が欲しいんじゃないのかな。快楽を求めることが欲望と呼ばれるわけで。春彦は、欲望を持てない人なのか?もしかしたら沙織も。だからセックスが自虐的になる? 欲望がない人の不幸せ。 いや、欲望と行動が直結しない人の不幸せかな。
by denkihanabi
| 2005-10-08 03:10
| 映画ネタ
|
ファン申請 |
||