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2005年 04月 29日
アレハンドロ・アメナーバルの新作。この人は天才です。
ひさしぶりに1日に2本映画を見た。 「コンスタンティン」の後に「海を飛ぶ夢」を見るのは面白い体験だった。2本とも、アプローチは180度違うが、生と死、それに自殺を重要なモチーフとしている。 私はわけあって、ここのところやや、死に敏感に反応するようになっている。 だから、今日、ひどくあたたかい晴天の一日に、そんな映画を立続けに見たということが、面白かった。 ところでこの映画、日比谷シャンテで見たのだが、観客の平均年令の高さに驚いた。8割くらいの入りだったと思うが、上映前ロビーに並んでいた面々の平均年令は軽く60才を超えていたのではないか?この前ラーメンズに行ったときは私は長老レベルだったが、シャンテでは私は若い方から5番以内に入っていたと思う。狭いロビーにぎっちり並ばされて、うっかり安楽死してしまう人がいるのではないかと心配した。 さて。 ココロとカラダは別々のものではない。 体の死は、心の死に道筋をつける。 心の生は、体の生を欲望する。 主人公ラモンは、若いときの怪我で、28年間四肢不随の寝たきりの暮らしをしている。いや、それは暮らしとは呼べない。ベッドの上で生かされ続けているのだ。 ラモンの中で、体の死と心の生は、常に矛盾したベクトルでその主体を苦しめ続けてきた。その苦しみの中で、ラモンは曖昧で優しい笑顔を身につけた。 あの笑顔。ハビエル・バルデムは、あの笑顔だけで、すべての主演男優賞を受賞する資格があるだろう。 生の欲望が全く満たされない状況の中で、ラモンは自らの意志で死を決定することを選ぶ。意志だけが、彼の物であり、彼そのものなのだ。 だが、ラモンは不思議なほど、人の愛に囲まれて生きている。父、兄、義姉、甥、それに尊厳死協会の女、弁護士の男、そして自らも不治の病を抱える女弁護士と彼を支えることを自分の生きる支えにしようとしている貧しい女。 映画はほとんどラモンのベッドのまわりで進行し、そしてその空間はとても豊かな空気で満たされている。 笑いがあり、涙があり、愛がある。 こんなに豊かな人生を生きられて、なぜ死を選ぶのか?見ているものは、死ぬとか言ってないで生きろよ、女たちが愛してくれてんじゃん、と思う。 でも、体が全く動かない人間の苦しみを誰が分かるだろう。 アレハンドロ・アメナーバル監督の演出の最も素晴らしいところは、現実と非現実を浮遊するように軽々と超えてしまう瞬間にある。前作「アザース」でも鮮やかな手並みを見せていたが、この作品でも見事なシーンを描いている。 ベッドに横たわったラモンが、愛を感じた女フリアに語りかけるシーン。喋っているラモンの口の動きが止まっても、まだセリフは続いている。そして口を動かさずに声だけを聞かせているラモンは立ち上がり、車椅子に座っているフリアの背後に歩み寄り首筋にキスをし胸に手を滑り込ませる。二人はキスをする。キスをしている二人の上下関係は分からない。と、ラモンはまだベッドで寝たきりで、フリアが動けない彼にキスをしているのが分かる。 この一連のカットの流れ。見事だ。 フリアは自分も進行性の難病にかかっている。フリアはラモンの死の計画に協力することを約束する。が、結局彼女にはそれを実行することができなかった。裏切られ、深く傷付くラモン。 フリアとは違う形でラモンを愛した女、ロサが結果的にその後を引き継ぐことになる。ロサは葛藤の末、ラモンの尊厳死=自殺に協力することを決める。 もう一人の女がいる。28年間ラモンの世話をしてきた献身的な義姉マヌエラ。彼女はラモンの意志を認めているが、協力はしない。ただ見守り続ける。 映画の終盤で、甥のハビが実はラモンの息子であることが示される。ということは、マヌエラは写真にあった28年前のラモンの恋人なのだ。彼女は傷付いたラモンに結婚を拒絶され、ラモンの兄ホセと結婚してそれ以来ラモンの世話をしてきた。 では、兄ホセはどんな気持ちで生きてきたのか。 この映画の残酷さは、ラモンのやさしい笑顔の裏側にある。 ロサと二人で、何度も夢に見た海の見える部屋に泊まったラモンは、しかし、たった一人でビデオカメラに向かって死の儀式を行う。コップに入った青酸カリをストローで飲むのだ。 彼がその部屋まで来ることと、コップに青酸カリを溶かして用意することにはロサをはじめとした数多くの人たちの協力を受けている。だが、死ぬときは一人だ。 カメラに向かってラモンは話す。 「私はこの28年間、一度も楽しいと感じたことはなかった。」 では、フリアとキスしたときも、ロサと海を見たときも、息子に執筆を手伝わせたときも、一度も楽しくなかったのか? ラモンはそう言っている。ラモンは28年前に首の骨を折ったときに死にたかった。28年遅れて、彼はようやくそれを成し遂げたのだ。多くの人の心を利用して。 それだけのことなのだ。 ラモンはエゴイストだ。 彼の望みは死ぬことだけ。 「僕を愛する人は、僕に協力する人だ」とラモンは言う。 強い意志で彼はそれをやりとげた。 意志だけが彼そのものなのだ。 やさしい笑顔の裏で、彼の心は固く閉じていたのだと思う。 それが、この映画の本当の厳しさではないか。 もうひとつ、深読みしてみよう。 28年前の、事故は自殺だったのではないか? 海に詳しいラモンが引き潮の時に岩場から飛び込んで首の骨を折った。 彼は、飛び込む瞬間浜辺の若い女を見ていた。 あれは、マヌエラだ。あの時すでにラモンの子を宿していたはずだ。 だがもしそのとき、マヌエラの心がラモンを離れて兄のホセに移っていたとしたら?ラモンはそのことに絶望して、衝動的に海に飛び込んだのだとしたら? ラモンの、愛に包まれたように見える28年間は、復讐の28年間だったことになる。 これは深読みしすぎかも知れない。 でも、すべてが腑に落ちるでしょう? この映画は、見て感動して泣くような映画ではない。 死や、生について、考えるきっかけになる映画だ。 本来フィクションというのは、そういうものなのかもしれない。
by denkihanabi
| 2005-04-29 02:09
| 映画ネタ
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