カテゴリ
検索
以前の記事
フォロー中のブログ
映画・読書日記 レモ茶のお絵かき日記。 とりあえずどこかに シネマ親父の“日々是妄言” 嘆息熱気球(アーカイブ) 2+2=5 まいにち酒飲み *- Petit sou... the borderland befounddead 映画の心理プロファイル tropicalia ■■■ another unti... ◎ ○ O o 。_ 。... ::: C_i_N_E_... かたすみの映画小屋 酒の日々、薔薇の日々、本... t r a v e l ... シネマの手帖 僻眼から見た景色 スキマワード(ズ)/ni... keep going メカpanda乗りのメデ... conta備忘録 finn. ちょびまめにっき 最新のトラックバック
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2009年 04月 12日
話題の「おくりびと」を見る。
思ったよりずっと、いい映画だった。 面白い。 「おくりびと」とタイトルが出る前の冒頭の5分間が、ショートフィルムとして素晴らしく完成度が高いと思う。 白く煙る吹雪の道を走る車。車の中に二人の男。二人が行き着くのは葬儀を控えた家。美しい遺体。二人の男は納棺師。見たこともない作法で遺体を清めていく。遺族とともに観客もその作業の鮮やかさに目を奪われる。ところが意外なハプニングが。 見事だ。 生と死があり、愛があり、ユーモアがあり、現代的な生の揺らぎがある。 それを映像作品として成立させているのは、モックンの所作の美しさだ。 死者の着衣を布団に隠しながら脱がせる時の、所作の美しさ。 モックンこと本木雅弘はパントマイマーのように鮮やかな手や指の動きを見せる俳優で、この映画ではその能力が最大限に活かされている。 映画で偉いのは監督ではない。写っている人だ。フィクション映画の場合、俳優だ。あたりまえだ。写るやつがいなかったら、写すやつは何もできない。 その最初の5分間に、この映画のほとんどの魅力は凝縮されている。 モックンとその師匠の山崎努、死者とその家族が紡ぎ見せる物語。 その後の約2時間で、最初の5分になかった要素は、広末涼子演じるモックンの妻だけだ。 ヒロスエはこの映画の中で、やや浮いている。据わりが悪いのだ。だが、彼女が実はこの映画の重要な肝になる人物だ。 つまり、生きている人間代表、である。 あの世への旅立ちをおくる人ばかりの話の中で、ひとり、この世の旅を生きる人。 モックンが最初の腐乱したエグイ死者をおくった後で、若い妻のヒロスエの裸に溺れようとするシーンは、ただの濡れ場ではない。曝け出されたヒロスエの痩せた肩や腰の肌は生きている人間の肌の温度と湿度の象徴だ。 人間が生きているということは生きた細胞で作られている他者の皮膚に触れることでだけでリアルに感じられることなのだ。 ほぼ、それが、愛だ。 ヒロスエは残念ながらうまい女優ではないので、ぎこちない微笑みでしか自分の役柄を表現できていなかったが、彼女は山崎努と同じくらい重要な役だったんだ。 あの役が宮沢りえだったら、たぶんストーリーには馴染んだろうけれど、生きているリアルは出せなかっただろう。宮沢りえは「トニー滝谷」に似合う。フィルムの中の幽霊である。ヒロスエの肌は、フィルムからはみ出している。だから浮いている。でも、この映画ではそれが大切だ。 なぜ、人間は人と一緒にいたいと思うんだろう。そしてなぜ、別離が悲しいんだろう。 そんなことは考える必要もなく、人間はそういうもんなんだよと思っておけばいいのかもしれない。 でもふと思うのは、人間のからだの細胞は、自分のからだだけでは納まっていないのかも、という感覚だ。 細胞は皮膚を越えて、他の存在とつながりたいのだ。 おくりびとが、死んだ人の肌を手で舐める。美しい所作だ。 だがあの肌は、冷たい。死者の硬直した肌だ。 それは、細胞が求めている肌ではない。 だからおくりびとは哀しい。 細胞は、自分と同じように生きている、暖かい細胞を求めている。 そして、映画「おくりびと」はそのように終わる。
by denkihanabi
| 2009-04-12 04:05
| 映画ネタ
|
ファン申請 |
||