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2009年 02月 07日
監督・水田伸生というより、主演・阿部サダヲというより、脚本・クドカンこと宮藤官九郎作品として売られている映画である。
くどうかんくろう=宮藤官九郎という名前は、いつの間にかMacの“ことえり”環境でも一発変換されるようになった。MacBookPro買ってから、初めてこの名前を打ったのに。 クドカンのすごいところは、ハチャメチャにぶっ壊れたいたずらっ子のようでいながら、見事なまでにソツがないところだ。 趣味に走って暴れながら、空気読んでる。でもって、プロっぽくまとめる。 「真夜中の弥次さん喜多さん」も見事にバカバカし面白かったし、TVの「タイガー&ドラゴン」も好きだった。でも感心したのは、原作ものの映画の鮮やかさだ。「GO 」と「ピンポン」と「69」。 わずか2時間にまとめなければいけない映画に比べると、原作っていうのは長くて細部まで描き込まれているものなのに、まったくエピソードもエッセンスも失わず映画にしてしまう脚本力は、マジックのようだ。 しかもしっかりクドカンらしさを色のように匂いのように刻み込んでいる。 でも。 だから、この数年、クドカンははずさないって思ってたのだが。 「舞妓Haaaan!!!」は、つらかった。何ヶ所かは笑えたけど。 始ったとたんに、つらかった。 舞妓はんが着物を着るカットと、京都の細い路地をカメラを抱えた暑苦しい男たちが走るカットの、カットバック。 カットバックの要素としては、これでよい。 映画は、これで始められる。 でも、この絵じゃだめだ。 この映像と、編集ではだめだ。 状況を提示してはだめだ。 感覚を掻き乱さなくては。 それが、映画のノリを生むのだ。 この映画は、まるでそれができてない。 描こうとしていることの勢いに、映像がついていけていない。こういう映像を見ると、いらいらする。テレビドラマや韓国映画を見ていて、いやな感じがするのはそういうときだ。 物語は面白いのに。 逆に、世の中には、描こうとしていることを映像が追い越してしまう映画がある。物語を置いていってしまうのではなく、瞬間的に先の次元に行ってしまうのだ。そういう瞬間には驚きがある。そういう瞬間のある映画が、私は大好きだ。 阿部サダヲ主演だ。阿部サダヲのオーバーアクト全開だ。監督は、それをありのままに見るという演出を選んだ。彼の暴れっぷりを、カメラはゆっくりとした移動で長回しで捉える。阿部サダヲはもともと舞台の人だから、ワンシーンワンカットでも面白いはずだ。俳優の魅力が写っているはずだ。 でも、そうならない。いらいらする絵になっている。 脚本と演技の暴走に対して、カメラが保守的すぎるのだ。 「パコと魔法の絵本」の、映像の弾け方に演技が置いていかれないようにさらに弾けてみせる、あのドライブ感。あるいは「恋の門」の、物語と演技の隙間ができるのを怖れてコネタを詰め込みまくる異常なまでのテンション。 「舞妓Haaaan!!!」には、そういう観客を振り回すドライブ感がない。ロックコンサートを座ってみてるみたいな、苛々を感じる。 宮藤官九郎の脚本を絵にするには、クドカン以上に、監督もカメラも踊らなければいけないのだ。それをこの映画は、座ってやろうとしてしまった。 一見、大人の正しいやり方のようだが、失敗だった。 物語の軸が、何本かに割れていて、観客の気持ちがまとまらない。主人公と舞妓はん。主人公と彼女。主人公とライバル。ライバルと舞妓はん。この4つの軸をうまく心地よい感情の流れにまとめられていない。バラバラなままだ。 堤真一と阿部サダヲが次々仕事を変えるところは笑えたけど。その後が冴えない。後半のウェットな展開を笑えなくしたのは、脚本のせいか監督のせいか分からないが。あんな言い訳みたいな泣きに物語の収束を求めては、だめだ。あのベタな泣きネタをギャグにしそこねたのが失敗だった。 それに、柴咲コウはミスキャストだ。 柴咲コウは言うまでもなく、目ヂカラのあるパキッとした顔の美人だ。どんなにブスの振りをしても、柴咲コウは最初から舞妓はんよりキレイである。あんな強い顔のキレイな女が、最初から最後まで阿部サダヲに惚れているという設定が、根本的に無理がある。映画の嘘の範疇を越えている。しかも、最初っから派手な顔の女が、舞妓はんになってキレイになるっていうのって、見てて意味が分からない。 ぶっちゃけ、あの藤子という女は、この物語に必要なかったのではないだろうか?阿部サダヲには東京に捨ててきた女なんていない方が、物語の軸もキャラクターもはっきりしたと思う。 あの女がいなければ、阿部サダヲVS 堤真一の舞妓オタク対決を軸に、京都舞妓ワールドで、話が完結するのだ。 そうしたら、もっとストレートに面白くなったかもしれない。90分くらいに収まっただろうし。
by denkihanabi
| 2009-02-07 14:48
| 映画ネタ
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