カテゴリ
検索
以前の記事
フォロー中のブログ
映画・読書日記 レモ茶のお絵かき日記。 とりあえずどこかに シネマ親父の“日々是妄言” 嘆息熱気球(アーカイブ) 2+2=5 まいにち酒飲み *- Petit sou... the borderland befounddead 映画の心理プロファイル tropicalia ■■■ another unti... ◎ ○ O o 。_ 。... ::: C_i_N_E_... かたすみの映画小屋 酒の日々、薔薇の日々、本... t r a v e l ... シネマの手帖 僻眼から見た景色 スキマワード(ズ)/ni... keep going メカpanda乗りのメデ... conta備忘録 finn. ちょびまめにっき 最新のトラックバック
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2008年 06月 02日
「そこには、血があるだろう」
意訳すると、「どうせ、血が流れるんだ」という、厭世的で投げやりなタイトルがクールだ。 もちろん「ブラッド」は、「血」と「石油」のダブルミーニングなわけだが、そんなタイトルなら当然映画の後半では、石油の権利をめぐる血で血を洗う争いが描かれるのだろうと思っていたら、微妙に違った。 「マグノリア」や「ブギー・ナイツ」の、PTAことポール・トーマス・アンダーソン監督の作品。「バイオハザード」のポール・アンダーソンとは別人である。私はタイトルを見て、最初あっちのポールがまじめな映画を撮ったのかと思った。と、言いながら私は「バイオハザード」も「エイリアンVSプレデター」も見ていないんだが。申し訳ない。 がつん、とした映画だ。 主演はダニエル・デイ・ルイス。この人、えらくごっつい男になってきた。「存在の耐えられない軽さ」で”Take off your close”って言ってたときの色男な軽さは微塵もない。今や、バート・ランカスターみたいである。 ルイスはスコセッシの「ギャング・オブ・ニューヨーク」にも出ていた。そのせいではないのだが、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」はスコセッシっぽい。私はなんとなく「カジノ」に似てるな、と思った。”Do I trust you?”と問いただし続けるラスベガスの大物を演じたロバート・デ・ニーロが、ダニエル・デイ・ルイス演ずるダニエル・プレインヴューに重なった。 他人をまったく信用できず、ただ有り余る自我のエネルギーを、殺伐とした宗教のように金儲けに捧げる男の物語だ。金を生み出すのは「カジノ」では賭博場、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」では油田だ。 スコセッシ/デ・ニーロなら、クライマックスには絶対マシンガンが乾いた音をたてるところだが、アンダーソン/デイ・ルイスのこの映画では、別の形で血が流れる。 2000年代においては、スコセッシよりアンダーソンの方が、いい映画を撮る監督であるのは、間違いない。田舎町をダニエルが息子と車で訪れるシーンのドリーショットだけで、この監督が映画に祝福されているのが分かる。 うまいだけでなく、詩情がある。 と、まあここまで書いて来て、なんだか外堀から埋めているような文章になっているのは、私にとってこの主人公が、どうでもいいやつだからだ。 「カジノ」の主人公も、どうでもよかった。 すごい迫力のある人物だし、その人生を映画で見る価値はあるし、作品としても見事な出来映えの映画だが、俺にとってはあんたの悩みもあんたの欲望もあんたの夢もあんたの矛盾も、どうだっていいのだ。 なぜだか分からないが、スコセッシの映画を見るとよくそう感じるし、ポール・トーマス・アンダーソンの映画でも、映画と自分の心のすれ違いを感じる。 PTAの映画で一番好きな登場人物は、「マグノリア」でトム・クルーズが演じていたセックスの教祖だ。ああいう過剰さは好きだ。「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」では、主人公のライバルではないが奇妙に人生に絡んでくる若い牧師が、あのキャラに似ていた。狂信的なカリスマを演じている男。真のカリスマでないことを、自分で分かっている男。 彼の両親との関係はほとんど語られないが、おそらくなにか決定的にうまくいっていなかった。ダニエルは孤児を自分の息子として育て、突然やってきた「あなたの弟だ」と言う流れ者を事業の片腕にする。 ダニエルは血のつながりに飢えている。 だが、彼は結婚も女遊びもしない。映画の冒頭で、金を掘っていたときにダニエルは縦穴に落ちる。それ以来、彼は片足が不自由になる。たぶんそのとき、ダニエルはインポになってしまったのだろう。 ダニエルは石油という血を得ることはできたが、家族との血のつながりは永遠に得ることができない。性と愛と絆への可能性を断たれた男の欲望は、金と権力と、最後には暴力に向かう。 ダニエルは、絶望の中を理不尽なまでのエネルギーで生きている男だ。 最近たてつづけに、絶望の中を生きることについて描かれたアメリカ映画を見ている。「クローバー・フィールド」「ノーカントリー」「ミスト」それに「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」。どの映画も、結末は明るくない。 これがアメリカの社会の気分を反映しているのだとしたら、きっとそうなのだろうが、ひどい閉塞感を感じながらアメリカ人は生きているということになる。救いはないと分かってしまったときに、人はどう生きるべきか?刹那の恋に生きるのか、現実に背を向けて隠居するのか、自ら命を絶つのか、それとも世界との関係性をすべて清算してしまうのか。 アメリカ人は日本人と違って、神による救済をどこかで信じて来た人たちなので、それがないらしいと気が付いてしまったときの絶望感と恐怖が大きいのだろう。なんでそんな風に思うようになってしまったのか。もちろん、9.11がきっかけなんだろうが、それにしても。 神の救済を信じられなくなった人たちがいるということは、逆に狂信的に神にすがりついている人たちも増えているはずだ。「ミスト」やこの映画に描かれているように。むしろ、そっちが怖い。 救済なんかなくたって普通に生きればいいのに。 [このあと、ラストについて書いています。ここからは必ず、映画を見てから読んで下さい] そしてラスト近く、青年に成長した息子が結婚し独立して事業をやりたいと申し出たとき、「お前は俺の息子なんかじゃない。砂漠で拾った孤児だ。バスケットに入っていたバスタード(ろくでなし)だ」と罵り、追い出してしまう。 そしてその夜、あの牧師がやって来る。息子は牧師の妹と結婚したので、積年の確執のあるこの牧師は、今やダニエルの親族だ。 ダニエルは、金の相談に来た牧師に「自分は偽聖職者で、神は迷信だ」言わせる。その上で、金は渡さず「お前は愚か者だ」と激しく罵る。石油王ダニエルの豪邸のボーリング場で、彼は牧師にボールを投げつけ、ついにはボーリングのピンで、牧師を撲殺する。 ああ、そこまでやっちゃうのか。まじですか、と私は思った。このシーンの濃厚な迫力はすごい。演出や映像より、ダニエル・デイ・ルイスの力だ。 でもこの、救いのない陰惨なエンディングには、なぜか爽快感がある。 頭を割られた牧師の血が床に広がっていく。ボーリングのレーンに座り込んだダニエルが向こうを向いたまま言う。 “I’m finished” 映画は終わる。 ダニエルは殺人犯になった。逮捕されるだろう。彼が強靭な魂と肉体で築いてきた、富と地位も、人間の絆も、すべて自分でぶち壊し清算した。冒頭、まだ貧しかったダニエルが暗い穴の中で1人でツルハシを振るって金鉱を掘っていた。その姿と、ラスト、ボーリングのピンで牧師の頭を殴りつける彼の姿が、韻を踏んでいる。 彼はゼロから始まり、ゼロに戻った。それだけだ。 深い徒労感と、暗いすがすがしさが残るエンディングだ。
by denkihanabi
| 2008-06-02 17:23
| 映画ネタ
|
ファン申請 |
||