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2007年 08月 25日
悪夢系の王様、デヴィッド・リンチの新作は、悪夢系というよりは、暴走する悪夢だ。
子供の頃、SF小説でよくあるパラレルワールドというのが怖かった。ある日学校に行ったら、自分の席がない。仲のいい友達もみんな「お前、誰?」って言う。なんなんだよって思いながら家に帰ったら、母親が「あなたどこの子?」って言う。そういうやつだ。私は子供の頃、トイレに入ってドアを閉めるのが怖かった。ドアを開けて外に出たら、自分が存在しない家になっているかもしれないからだ。 デヴィッド・リンチの映画はあれに似ている。暗い廊下の角を曲がり、ドアを開けると、自分じゃなくなっているのだ。 [完全にネタバレです。必ず見てから読んで下さい] リンチの映画では、「意識」は自分のものではない。「意識」はひとつの「肉体」に安定して属しているものではなく、いくつもの「肉体」に共有されている。それは時間も空間も無視してつながっていて、それぞれの「状況」に応じて、全く違うアレンジがなされている。何かのきっかけで、「意識」は違う「肉体」のモードに行ってしまう。そこではそれが「私」。だがそこの「私」もその「肉体」に安定して属しているわけではない。「意識」が以前の違う「肉体」と「状況」を覚えているからだ。 しかも、その不安定な旅路は、誰か、その仕掛けに気が付いている「存在」に操られているかのようでもある。 「意識」を「魂」、「肉体」を「人間」、「状況」を「世界」、「存在」を「悪魔」とか「天使」とかと、言いかえてもいい。でもそういう言葉で言ってしまうと、ある種の安心があって感覚が停止する。だから、言葉ではなく、映像と音で体感するべきだ。 今、リンチの映画を言葉で語ろうとしているが、間違っても、言葉で解読しようとしてはいけない。言葉で解読したところで、ほとんど意味はない。この文章はだから、リンチの映画と言葉で戯れているだけだ。 見終わってから考えるとあれは、この映画は、光と音で描いた、意味やつながりを無視した作品です、と宣言しているオープニングだったようだ。 「インランド・エンパイア」は映画作りの映画、という仕掛けになっている。ニッキーは未完成に終わった昔のポーランド映画「47」のハリウッド版リメイク「暗い明日の空の上で」の主役、スーザンを演じる。「47」は主役の2人が殺されて完成しなかったという、呪われた映画だった。ニッキーは、映画の中でスーザンが不倫するビリーという男を演じるデヴォンという男優と、実際にも不倫関係になり、現実と映画の境界が曖昧になってくる。 さらに、ニッキー=スーザンの意識と行動は、「47」で主人公を演じた女優=主人公とも、シンクロしてしまい、ニッキーは自己と他者の境界を完全に見失ってしまう。 とまあ、単純に整理すると「インランド・エンパイア」のストーリーの構造はそういう風になっているようなのだが、でもこの映画はそんな女優の精神的危機なんて話には全然見えない。 スーザンは映画の登場人物だから、監督か脚本家の作り出した架空の人物なのだが、ニッキーと同じ次元でどこかに存在する人物に見える。実は、映画というのはたまたまニッキーとスーザンが出会うためのきっかけにすぎず、2人は別のところでつながりあいながら生きているんじゃないかと感じられる。 だいたい私には劇中劇でビリーと豪邸で逢い引きしているスーザンと、貧しい家で粗暴な夫と暮らしているスーザンが、同じ女に見えなかった。よく分からない娼婦たちがたくさんいる部屋にいるのは、ニッキーの方だ。でもストリートで娼婦たちといるのはスーザン。じゃ、ストリートの反対側にいたローラ・ダーンは誰だ?誰だか分からない眼鏡の男に過去を告白しているのは、スーザンだろう。でもその内容がえげつなくて、やはりビリーと逢い引きしていた女と同じ女に見えない。 ローラ・ダーンはこの映画で何人の女に変わったのだろうか? 廊下を曲がり、扉を開けると、別の人間になっている。同じ名前の女でも、同じ人間に見えない。あの廊下や扉には法則性があったのだろうか?もう一度見てみたくなる。 逆にまるで違う顔違う名前の人間が、同じ人間に見えることもある。 暗い部屋でテレビを見て泣いているポーランド人の女。彼女は、ニッキーが出演しているリメイク映画のオリジナル版でスーザンに当たる役を演じていた女優だろう。女優であり、またその役の女でもある。ポーランドの雪の積もった街頭で娼婦に混じって立っている女は誰だ?階段で刺されて死ぬ女は誰だ?娼婦たちが英語で“Who is she?”と言う。あれはテレビを見ている女のようだ。でもあそこでニッキーが倒れていても、別におかしくない気がする。 殴られる女、刺される女は、貧しい家にいるスーザンとシンクロしている。 彼女がスーザンだとしたら、ニッキーはテレビの前にいる彼女だ。だから2人は最後に役割を交代するのだが、なぜそんなことができるのだろう? 娼婦たちも、スーザンも、ポーランドの女も、繰り返し口にする言葉があるのだが、なんて言ってたかな。「私に会ったことある?」みたいなことをいきなり問いかけるのだ。相手はその度に曖昧に笑うだけ。会ったことあるかもしれないし、ないかもしれない。それはあんただったかもしれないし、あんたじゃなかったかもしれない。 そしてもちろん、ウサギ人間は何者だ?村上春樹の羊男の友達か?ウサギ人間の死んだ会話は「去年マリエンバートで」みたいだ。 「マリエンバート」で曖昧に不確かなのは記憶だが、デヴィッド・リンチの映画で不確かになるのは、自己同一性だ。 「ふたりのベロニカ」では、ポーランドとフランスに、ベロニカという同じ女が住んでいる。ふたりはお互いを知らないが、何かを感じあっている。2人はともに歌を愛し、ともに心臓に欠陥がある。ポーランドのベロニカが声楽のコンサートの最中に心臓発作で死んだ時、フランスのベロニカは自分でも説明のつかない理由で、歌をやめることにする。 「ふたりのベロニカ」はスピリチュアルなシンクロニシティについての、美しい映画だ。 「インランド・エンパイア」も、4人の女(ニッキーとスーザンとポーランドの女優と女優が演じた女)、あるいは2人の女(ニッキーとポーランドの女優)の、スピリチュアルなつながりを描いた映画に見える。ただし、ベロニカは、もうひとりのベロニカとのつながりを感じた時、それを自然なこととして悲しみとともにやさしく受け入れたが、ニッキーは自分の精神の境界が失われることに恐怖を覚えた。恐怖を持ってその現象を見るときに、その現象は恐ろしいものになる。 だから「インランド・エンパイア」は怖い。 「イレイザーヘッド」も怖い映画だった。クライマックスに出てくる異形の赤ん坊が怖い。男はなぜか女の妊娠を怖れる。デヴィッド・リンチも製作中に離婚した妻の妊娠が怖かったのだろう。それがあのシーンの恐怖になっているのだと思う。 その後、リンチの映画は、自己の意識の境界線を見失うことと、その裏にいるなにか邪悪なものへの恐怖を、繰り返し描いてきた。それもリンチ自身が怖れていることなのだろう。 最初にニッキーの家を訪れて奇怪なお告げをする女が話すおとぎ話は、とてもリンチ的だ。 「男の子がドアを開けた時、彼の分身としての悪魔が生まれた。2人は並んで光の中に歩いていった」 「ツイン・ピークス」のボブを思い出す。 「インランド・エンパイア」で邪悪な存在は、スーザンの夫ファントムとその仲間のようだが、私はどうもこの辺の男たちが誰が誰なのかよく分からなかった。もともと外国人の男の顔はよく分からない(興味がないともいう)のにこの迷宮のような映画である。 だから最後にニッキーがピストルで撃つ男は誰だったのかよく分からないのだが、あの男を撃ったことでどうやらポーランドの泣く女は救済されたらしい。そしてニッキーは、どこか別のところに行ってしまったらしいのだが、なぜそうなるのかは分からない。ただ感覚的には、そういうこともあるかもね、って感じる。 なにしろ、ふたりはスピリチュアルにつながっているのだ。 リンチの映画で、救済は「ワイルド・アット・ハート」以来だろう。 予算がなかったとは思えない。リンチがローラ・ダーンやジェレミー・アイアンズの出る映画を撮ると言えば、興行的に期待できなくても誰かがフィルム代くらい出すだろう。 つまりこの画質の悪いビデオ撮影は狙いだ。 この荒れた映像は「イレイザーヘッド」に似ているかもしれない。「イレイザーヘッド」は16mmだったんだろうか?何年もかかって自主制作したという話を読んだことがあるからそうかもしれない。16mmを35mmにブローアップすると、画質がひどく荒れる。あるいは「ブレアウイッチ・プロジェクト」のようでもある。あの映画は今よりも性能が悪い時代のビデオ撮影だった。 クリアに見えない荒れた映像は、イライラする。そして怖い。はっきり見えないことが不安感を増す。「ブレアウィッチ」の主観映像は怖かった。「インランド・エンパイア」の部屋や廊下の主観カットも、怖い。 たぶんリンチは、DVCAMで実験的な短編を個人的に何本か作ったのだろう。そしてこの画質が気に入ったので、今度は実験的な長篇を撮ってみることにしたのだと思う。 もうひとつ、DVCAMで撮影するメリットは、機動力と経済性だ。つまり、いつでも撮れる。複数のスターが出演するシーンや、大掛かりなセットが必要なシーンはスケジュールが限定されるが、登場人物が少ないシーンや、実景だけのカットなどは、文字通りいつでも撮れる。場合によってはカメラマンさえいらない。編集してから撮り直すのも、撮り足すのも自在だ。 「インランド・エンパイア」は、たぶん、オープニングからラストまでの完成されたシナリオがないはずだ。いろいろなイメージを撮って、つなぎ合せている。そうでなければこんな映画にはならない。そのやり方をするには、技術的経済的負担を極力軽くする必要があった。 これは壮大な自主映画だ。大巨匠だからできる、贅沢なインディペンデント映画だ。 いやいや、それ気持ちよくないから。 うさぎ人間も謎だが、この踊る娼婦たちってのも謎だ。まあ、リンチの脳みそのどっか欲望回路あたりから湧いてきたのだろう。 最後に祝祭を持って来るというのは混乱した映画をまとめる必殺技で、フェリーニ的だが、この映画のラストはいかにも強引だ。悪夢にエンディングテーマがかかるか? 「マルホランド・ドライブ」のラストの「シレンシオ・・・」の静謐さとは対極にある終わり方で、そういう意味では面白いけど。 音楽と言えば、最初からずーっと鳴っている重いシンセの音。あれも、DVの映像の安っぽさを強引に重厚にする効果があった。ああいう音が鳴っていると、どんな絵でも怖くなる。「シャイニング」に通じる堂々たるずるい手口だ。たぶん、音のミックスにはすごい時間をかけているだろう。デヴィッド・リンチは自宅に録音スタジオを持っているらしい。こもりっきりでやってたんだろうな。 つぎに、リンチが、怖くない夢の映画を撮ったら面白い。
by denkihanabi
| 2007-08-25 15:29
| 映画ネタ
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