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2007年 04月 21日
なぜこの映画を見たのかというと、マーティン・スコセッシが学生時代にこれを見て衝撃を受けたと語っていたからだ。
今村昌平という監督は、実は私は「楢山節考」と「うなぎ」しか見たことがなかった。両方とも意外と面白かったのだが、でもこの監督はどうも泥臭い印象があって苦手だったのだ。 でも、たまたまフィルムセンターで今村昌平の特集をやっていて「豚と軍艦」を見て、驚いた。 この映画、本当に面白い。カッコいい。泥臭いが、同時にスタイリッシュだ。なるほど、スコセッシの初期の作品に通じる雰囲気がある。「ミーンストリート」や「タクシードライバー」に。 1961年の映画だが、舞台となっているのは同じ時代なんだろうか。1961年って、まだあんなに“戦後”だったんだろうか。 横須賀のドブ板通りが舞台だ。 ここが、いい。 住むには最悪だが、映画的には最高の舞台だ。カオスである。そして縮図だ。 めちゃくちゃに若い長門裕之が主人公の欣太を演じている。多動症の子どものように落ち着かないチンピラだ。 欣太は貧しい暮らしから抜け出すために、ヤクザの舎弟をやっている。この街では金持ちは、占領軍であるアメリカ軍とその取り巻き。貧乏なのは、日本人だ。 欣太には恋人がいる。地味な顔だが色っぽい女の子で春子という。若い女には男よりも簡単な稼ぎ口がある。アメリカ人の女になるのだ。春子の姉はそうやって金をもらっている。母親も春子に姉と同じことをすることを薦めている。でも、春子はアメリカの暮らしに憧れながらも売春で生活することは拒んでいる。彼女は好きな欣太と暮らしたいのだ。 ものすごくわかりやすい設定だ。 こんな混然としながら分かりやすい状況は、今の日本にはない。おそらく、明確な敵や悪がなくなっているからだ。「豚と軍艦」では敵はアメリカであり、悪は貧しさだ。いや本当は敵はアメリカではないのだが、圧倒的な力を持った外部の存在としてそこにいるので、主人公たちは夢と敵意の両方をアメリカにぶつけることができた。 今は違う。 夢も敵も悪も、自分たちの中にある。今の日本は、心理学の時代だと思う。私たちに必要なのは、政治ではなく精神分析だ。でも、精神分析は決してはっきりした答を提示しない。 今村昌平がすごいのは、45年前の分かりやすい外敵を設定できる状況で、しっかり人間の内面の悪や弱さやなさけなく美しい正義感を、外科医がメスで内蔵を切り出すように残酷に、でもコメディアンのように笑いをまじえて、見せてくれているところだ。 だから、今の日本人が見ても、この映画に出てくる人間たちは、知っている人たちのように見える。っていうか、あれは俺だ、あれはあいつだって、見える。 それはすごいことである。 手持ちカメラの撮影が生み出す映像の緊迫感は、最近の映画やTVドラマなんかめじゃないできばえで、ときどきこういうのに出会うと、映画人たちはこの40年何をやってたんだって、進歩ってないのかって思ってしまう。 欣太が撃たれてごていねいにトイレの便器に、それも女トイレの便器に頭を突っ込んで死ぬシーンは、「勝手にしやがれ」のジャン・ポール・ベルモンドの快感を感じるほどのかっこいい死に様とは正反対だが、でもあの2人には通じるものがあると感じた。 「豚と軍艦」はヌーヴェル・ヴァーグだ。 あるいは、ジョン・カサヴェテスだ。 そして、スコセッシの兄貴分だ。 日本に、こんな映画があったとは。 ラスト、横須賀にアメリカの空母が来る。 駅から大勢のアメリカ兵狙いの女の子たちが降りてくる。春子が、ひとりそのギャルの流れに逆らって駅に向かい、横須賀を去る。 カメラは俯瞰で駅を離れる電車をとらえる。 カッコえー。 クールだ。
by denkihanabi
| 2007-04-21 01:30
| 映画ネタ
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