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2006年 09月 25日
溝口健二の現代劇。
現代と言っても1954年の現代だが。 舞台は京都の老舗の遊郭なので、女将の田中絹代以下、女たちは着物を着ている。そこに女将の娘の久我美子が東京から帰ってくる。この久我美子が、オードリー・ヘップバーンのコピーみたいな洋服。 この対比がものすごく分かりやすい。 この衣装は、パクリといよりは実際にこういうファッションが流行っていたのかもしれない。「ローマの休日」の翌年で、「麗しのサブリナ」の年だから。顔以外オードリーな女性が銀座あたりにいっぱいいたのかも。 ストーリーは別に面白いわけではない。母親と娘が同じ男を好きになるという。昼メロみたいな話だ。セリフとか演技とかはやっぱり昔風だし。 でもこの映画、面白い。ほんとうに、面白い映画とつまらない映画はどこが違うんでしょうね。 田中絹代がいい。私はこの人の映画をそんなに見ているわけではないが、今までで一番よかった。 老舗の置屋、井筒屋の女将を演じているのだが、京ことばの明るくタフでしたたかな、いかにも「京都の商売上手なおばちゃん」という感じがすごく出ていた。この人京都の人なのかと思ったが、生まれは山口らしい。よくあそこまで雰囲気を出せるもんだな。感心した。 この女将が、若い医者とできている。女将は本気で「先生」との再婚を考えているが、どうも「先生」のほうは金が目当てな様子だ。しかも、「先生」は女将の娘と急接近していく。 ある日、女将はお得意さんの接待で能を見に行く。先生と娘も同行している。そこで、女将は先生が自分を裏切って娘と東京に行こうと話しているのを立ち聞きしてしまう。自分は、先生との新居を買うために店を抵当に入れて借金をしようとしているのに。 舞台では狂言「枕者狂(まくらものぐるい)」が演じられている。 60才の老女の恋を描いた演目だ。 恋は、20才の若者のもの。それをこんな年寄りがしてしまうとは。 観客は笑う。終わった女の気持ちを笑う。先生も娘も笑っている。 女将は笑えない。 残酷なシーンだ。 自分の滑稽さに傷つきながら、男への執着をさらに強めながら、でもそんなことは客の前では少しも見せずに笑顔で仕事をする女将。田中絹代の演技は、痛みを強く表現しているのに臭くならず、見事だった。 私は、京都の文化のことは全然分からない。 芸者と舞妓と遊女と花魁と太夫の違いもよく分かっていない。「SAYURI」で芸者は芸を売るもので体は売らない、というようなことを言っていたような気がするのだが、あれはアメリカ映画だからどこまで本当か分からない。 「噂の女」の井筒屋の女たちは太夫と呼ばれていた。高級店のようだったが、太夫は芸も見せ、酒も飲み、体も売る仕事をしている。女たちはみな田舎の貧しい農家の出身で、この仕事をして田舎の家族を養っている。表向きは明るいが、楽しい仕事ではないようだ。体を壊したり、男にだまされたり、金のトラブルに巻き込まれたりする。 久我美子が演じる井筒屋の娘は、お嬢さまと呼ばれ東京の音大でピアノの勉強をし高そうな洋服を着ているが、彼女のリッチな生活を支えているのは貧しい女たちが体を売って稼いだ金で、娘はそのことに気がついて自分の母の仕事に嫌悪感を持っている。 溝口健二は、子供の頃に父親を亡くし、芸者になった姉に育てられたという。きっと若い頃に、こういう女の仕事とそこに出入りする男たちを見てきたのだろう。井筒屋の見事なセットの中で繰り広げられる太夫たちの日常の描写は、すごく説得力があった。カツラを脱いで食事をしていたところに客が来て、慌ててカツラをかぶって出迎えるとか、ディテールが面白かった。 この映画は、特別長回しのカットというのはなかったが、やはりカメラがやや離れたところから人を見ているような撮り方をしていた。 そうすることで、女たちのドラマを映しながら、それを包んでいる、あるいは縛っている、井筒屋という売春の歴史が染み込んだ古い立派な日本家屋の存在感を、映画は常に感じさせていた。 こういう遊郭というのはいつまであったのかというと、1958年に売春防止法が施行されるまでだったらしい。この映画は1954年の作品だから、この4年後には井筒屋のような置屋も歴史を閉じたわけだ。 だいたい出てくる男たちの大半が酔っぱらいである。夕方から何件かはしごをして、最後に井筒屋に来る、というのが遊びのパターンらしい。 客たちの中には「SAYURI」の渡辺謙みたいなカッコいい男はいない。みんな、わがままで、甘えん坊で、だらしない。老舗の置屋で芸者遊び、なんてのはすごく金のかかる遊びだから、客はほとんど会社の接待で、たぶん接待されてるおじさんは仕事中はまじめな会社の偉い人だったりするんだろうが、そんなところは全然見えず、ただ酔っぱらってだらしないだけである。 楽しそうだ。あれでは仕事のために接待しているのか、接待のために仕事をしているのか分からない。 きっと子供の頃にこの映画を見たら、酔っぱらったおやじたちに嫌悪感を覚えたかもしれないが、今は私も酔っぱらいのだらしないおやじなので、あの客たちにはとても親近感を覚える。私はあんな高そうな店には行けないけれど。 客以外の男たち、女将が入れあげている先生や、女将に入れあげている遊郭の実力者らしいおやじも、金と色にしか興味がない男として描かれていて、まるで深みがない。女たちのような存在感がない。 とにかく、女の映画なのだ。監督も脚本家も男だから、女が描く女の映画とは違うけれど、これが女の映画なのは間違いない。 でも、映画の姿勢は女に対しても冷たい。女将と娘が好きになった男は、結局金と色と自分のことしか考えていない男だったわけで、女たちも愚かなのだ。この人間に対してクールなところが、溝口健二の魅力かもしれない。劇的なことが起きても、感情の昂りがあっても、どこか冷めた目で見ることを、映画は観客に求めているようだ。 そこに、通俗的な物語が昼メロにならない秘訣があるのかもしれない。
by denkihanabi
| 2006-09-25 03:02
| 映画ネタ
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