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2006年 09月 21日
「雨月物語」に比べると「山椒大夫」には感激しなかった。
「雨月物語」は幻想怪奇映画でラブストーリーだから、私のツボだ。大好きなタイプのモチーフなんだ。でも「山椒大夫」にはそういう要素がない。 親子の絆、兄妹愛、階級差別と人権の問題、そんなものが物語の軸になっている。 「雨月物語」よりさらに道徳色が強い。 それに、私は「雨月物語」の源十郎にはものすごく心情移入できた。心情移入というよりは、シンクロニシティのような感覚だ。あ、昔の映画に俺がいる。 そんな感じ。 「山椒大夫」には、そういう入り込める登場人物がいなかった。だから、客観的に見てる感じだった。 でも、「客観的に」見るというのはこの映画の正しい見方なのかもしれない。カメラの視線がとてもクールだからだ。 溝口健二は長回しで有名らしい。でも私は「山椒大夫」も「雨月物語」も見ているあいだは、ワンカットの長さはあまり気にならなかった。相米慎二の映画だと、これでもかというくらい長回しが強調されていて、長回しのために映画を撮ってるんじゃないかとさえ思うのだが、溝口健二はそれほど長回しだろうか。 「山椒大夫」のラスト近く、母を捜して海岸を歩く厨子王をクレーン移動のワンカット撮影でおさめたシーンは有名らしいのだが、すごく自然で、私はパンフレットを読むまであそこがワンカットだったかどうか気にしていなかった。 言われてみると、厨子王が都で関白に直訴するくだりも長いワンカットで描かれていたような気がする。でもあそこもとても自然で(自然というのは演技が自然、という意味ではない)長回しのつらさがなかった。たぶん、人物の動きとカメラワークに調和がとれているのだろう。 むしろ感じたのは、この監督は複数の人物がフルショットで収まるサイズで、少し離れたところから演技をじーっと見つめているような撮り方をするな、という印象だ。それは長回しと同じことなのかもしれないけれど、長くないカットもそういう風に撮っている。 逆に言えば、クローズアップが少ないのが特徴だ。 そのことが、映画にクールな印象を与えている。 牢屋の床に突っ伏して、背中を震わせて嗚咽する厨子王の姿を、カメラはやや後ろから、体を丸めた主人公の全身とその向こうの牢屋の格子が入るサイズで、見つめる。 厨子王の無念を強調しようと思えば、くしゃくしゃになった泣き顔のアップを挟むこともできるし、床の土をつかむ手元のアップを撮ることもできる。あるいは格子の隙間から見える関白の住む建物を厨子王の主観で見せる、なんてこともできる。 でも、この映画はそんなことをしない。泣く厨子王の背中を引きサイズで見せるだけだ。 この節度は、美しいと思う。 韓国ドラマのいつも泣いている眼鏡男のアップの連発とは大違いである。 最近のハリウッド映画のめまぐるしいアップカットの連続でテンションを高める手法とは正反対だ。 あるいは、安寿が湖で入水自殺するシーン。 木々の隙間から見える湖に、安寿が入っていく。当然フルショット、ワンカットだ。哀しげな安寿の美しい表情、なんてアップカットは入らない。替わりに、離れたところから湖の方を向いて拝んでいる老女のカットが入る。これもフルショットだ。次のカットで、湖にはもう安寿の姿はない。静謐な湖面に正確な同心円の波紋が広がるばかりだ。波紋の中心には、安寿の最後の息が、泡になって浮かんでは消える。もちろん、沈んでいく安寿なんていう水中のカットはない。 このシーンは美しすぎる。美しすぎる上に、あっけなさすぎる。あっけなさすぎるので、その美しさがよけいに際立つ。人生は、少しでも目を離したら消えてしまうほど儚いものだ、と感じさせる。 なぜ、アップを使わないのか? アップをまったく使わないわけではないから、正確に言うと、なぜアップカットをインサートしないのか? クローズアップと編集は、映画の特徴だ。舞台の演劇にはない。 ロングの長回しは、だから非映画的な手法とも言えるのだが、不思議なことに溝口健二の「少し離れたところから俳優を見つめる」映像は、とても映画的な美しさに満ちている。 もちろんそれは非テレビ的、非MTV的だ。 観客の感情を不必要に刺激し昂らせることを、嫌っているような演出だ。 この撮り方をすると、表情の演技よりも体の動きが重要になる。だが、極端に大げさな演劇的演技は溝口の映画にはない。その辺になにか、ヒントがありそうだが、うまくつかめない。 この撮り方をすると、人間の感情やドラマと同時に、人間と関わりなく存在している自然や構造物を映像に収めることになる。あるいは主人公の物語とは別の文脈で生きている他の人々の存在を見せることになる。そこに私はクールさを感じるのだが。 つまり、それは、、 うまく分からない。 でも魅力的だ。 このころの日本映画は同録だったんだろうか。 それともアフレコなのかな。 明らかにこれはアフレコだっていうセリフがいくつかあったが、全部なのか? 溝口健二はリハーサルを繰り返して、演技が気に入らないとその日の撮影は中止にしてしまったという。それだけやって、やっとOKがでた芝居が音なしで、あとからまたセリフを入れ直さなきゃいけないんじゃ俳優が大変すぎる。 でも、ロケであんな引きで撮影してて声が撮れるような高性能マイクがあったとは思えないなあ。 どうだったんだろう? 安寿役の香川京子が、美しい。その美しさが分かるということはアップがあったということだ。たしかに物語の前半、数多くあった。 だがそのきれいな顔のアップは、引きサイズで水の中に消えてしまい2度と現れない美しい女性への、喪失感を強めるためのアップだったんじゃないかと、思う。
by denkihanabi
| 2006-09-21 23:52
| 映画ネタ
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