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2006年 08月 19日
ハリー・ディーン・スタントン、ナスターシャ・キンスキー、ライ・クーダー、サム・シェパード、ロビー・ミューラー、ヴィム・ヴェンダース。
「パリ、テキサス」。 長いけれど、地味な映画だ。 主要登場人物はわずか5人。 トラヴィス、その弟ウォルト、弟の妻アン、トラヴィスの元妻ジェーン、トラヴィスとジェーンの息子で、今は弟夫婦に育てられているハンター。 荒涼としたアメリカの田舎の風景と、ライ・クーダーのギターの音が、世界を作っている。この映画以来、アメリカの砂漠にはスライドギターと決まってしまった。 私は放浪癖のあるタイプではないので、主人公のトラヴィスに深く感情移入することはない。だが、ハリー・ディーンの風貌には存在感があって引き込まれる。 特別すごい特殊撮影や編集技法があるわけではないこの映画は、人物と風景を正確に撮影することで成り立っている。 「ていねいに」とか「淡々と」とかよりも、「正確に」という言葉が似合うように思う。 その言葉のニュアンスの持つ意味は、自分でもよく分からないのだが。 ただ、感じたのはハリー・ディーン・スタントンは、トラヴィスを演じているのだが、トラヴィスである以上にハリー・ディーン・スタントンなのだ。カメラはトラヴィスという謎の多い男を演じているハリー・ディーンを撮影していて、俳優自身の持つ存在感が虚構の人物を忘れられない男にしている。 すべての実写映画はドキュメンタリーだ。 黒沢清がどこかでそんなことを言っていたが、私もそう思う。 スクリーンに映し出されるものが、フィクションと演技であったとしても、カメラが捉えるのは「演技をしている俳優」の姿だ。そこに、トラヴィス=ハリー・ディーン・スタントンという混乱が生じるのだが、その混乱こそが映画における演技というものだ。 私はそう思う。 テキサスのどこだか分からない荒野に、ヒゲをはやしジャケットに赤いキャップと言うミスマッチな服装でハリー・ディーン・スタントンが現れたとき、この映画は彼の映画なのだと、誰もが引き込まれる。それは、彼がトラヴィスだからではなく、ハリー・ディーンだからだ。違うだろうか? それを引き出すことが、監督の仕事、つまり「演技を引き出す」と書いて「演出」だ。でも、本当は演技を引き出しているのではない。その人自身を引きずり出しているんだ。 そんな迫力が、ヴィム・ヴェンダースがロビー・ミューラーのカメラを通して撮ったハリー・ディーン・スタントンには、ある。 8mmのファミリー・ムービーを見るシーンが好きだ。 映画ファンは映画の中の映画を見るシーンに強く反応する。自分を見るからだ。 でもそれだけじゃなくて、「パリ、テキサス」の8mmのシーンには、とてつもなく美しいナスターシャ・キンスキーの笑顔が映っているんだ。 私が小説家なら、あのシーンのナスターシャ・キンスキーを描写するために1週間あらゆる比喩的表現を探すだろう。1週間で足りなければ、1ヶ月後に書き直すかもしれない。 幸い、私は言葉で勝負をする仕事をしていないので、あっさり映画を見た瞬間に感じた言葉を使ってしまおう。 あの8mmの中のナスターシャ・キンスキーは、愛そのものだ。 そして、それもジェーンというよりは、ナスターシャ・キンスキーなんだ。 だが、映画は、特に作家性の強い映画は、監督のイメージの具現化だ。 トラヴィスもジェーンも、ヴェンダースと脚本のサム・シェパードの頭の中から生まれた。 トラヴィスもジェーンも、ハリー・ディーンとナスターシャでありながら、ヴィム・ヴェンダース自身のどこか一部なのだ。 この映画は、そういう映画だ。 トラヴィスの父親が、テキサス州パリで出会った妻をフランスのパリの女だと冗談のつもりで言っているうちに、本気で妻をパリの女と思うようになってしまったという逸話と同じように、ヴェンダースは自分が思い描いた男と女を、ハリー・ディーンとナスターシャに演じさせ撮影しながら、その2人をまるで本当にトラヴィスとジェーンのようにしてしまった。 でも、ヴェンダースはトラヴィスの父より、そのシステムに自覚的なので、魅惑的な混乱を、観客にゆだねた。 そういう映画だ。 ナスターシャ・キンスキーは、この映画の中で、ついに一度も生でトラヴィスの目の前に現れることがない。 白黒の写真、8mm映画、そして覗き部屋のマジックミラー越し。 そんな風にしか、トラヴィスはジェーンを見ないし、ジェーンも「こちらがわ」に来ようとはしない。 トラヴィスの父が妻にパリを見たように、トラヴィスもまたジェーンに夢の女を見ていた。彼にとって「愛そのもの」の女を。 トラヴィスの弟はフランス人と結婚している。弟は夢を現実に引き入れた。トラヴィスは現実を夢だと思いこんだ。 「われわれは第一義的現実を放棄した。しかし、現実はわれわれを見捨てない。」 (ジャン・リュック・ゴダール) だから、トラヴィスの愛は破綻した。あたりまえだ。 女の人はどうか知らないが、男はどうもこういう風に女や愛を見る傾向にあると思う。 もちろん、それでももっとうまくやっていくやり方もあるとは思うけれど。 8才の息子のハンターは、ウォルトよりトラヴィスを選んだ。そして、父にとって「愛そのもの」の母に抱かれた。どーゆー人生を送っちゃうんだろうなあ。 放浪癖は、ありそうだなあ。 (ところで、ウォルトはウォルト・ディズニーを、トラヴィスは「タクシー・ドライバー」でデ・ニーロが演じたトラヴィスを思い出させる、というのはこじつけだろうか?) もちろん、でき上がったものを見て、こういうことを言うのはたやすい。 でも、なにもガイドラインもない中で、作品をゼロから作り始めるのは、テキサスの荒野に突然降り立って、ミスマッチな服装でふらふらと歩き出すようなことだろう。 映画が、ゴールにたどり着いたことは、奇跡のようなものだ。 美しい奇跡だ。 私たちは、そんなものを見たくて、映画やサッカーを見てるんだ。
by denkihanabi
| 2006-08-19 00:18
| 映画ネタ
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