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2004年 12月 05日
1981年の映画だ。
「ディーバ」と「ブレード・ランナー」と「フラッシュ・ダンス」が後の映画に与えた影響ははかり知れない。80年代の初頭には、何かが起きていたのだ。 カセット・テープがヒッチコックの言うところの”マクガフィン”(サスペンスを生み出すためにある中身のない仕掛け、というような意味か)になっているのは、デジタル時代以前のアイディアだが、映像や語り口は今見ても新鮮だ。 オープニングからしばらくセリフがない。 主人公が憧れのディーバの歌を聴きに行く。そして彼女の声を録音する。この歌が映画のトーンを決定し、観客を世界に引き込んでいく。同時に、ストーリーの核となる仕掛けも設定される。 見事な導入部だ。 徹底して非現実的な映画だ。 フランス語が分かる人が見ても、多分この映画の会話は、ひどく不自然だろう。会話だけでなく、人物の行動、彼らのいる背景、すべて“自然さ”というものを排除している。 そもそも、リシャール・ボーランジェは何者なのだ?初めて見たときも思ったが、あれほど説明されないご都合主義の権化のようなキャラクターも珍しい。あの男(役名も思い出せない)は、物語の外にいるみたいだ。全くアンタッチャブルな場所にいて、主人公の危機になると突然物語に入ってきて、またいなくなる。 そんな設定は、普通は許されない。 でもなぜか、この映画ではOKなのだ。 ストーリーは映画という料理を盛り付けるための器にすぎない。 料理の素材は俳優、あるいは彼らが演じるキャラクターだ。 監督は“映像”で料理を作る。 観客が味わうのは“感情”だ。 「ディーバ」は極めて危ういバランスで、しかし確信犯的に作り上げられた、見事な料理だ。 実はこの映画、とても古い年代物のいい器を使っている。 何年か前に、わけあって「天女の羽衣」という昔話について調べたことがある。海辺で天女たちが水浴びをしている間に、漁師の若者がひとりの天女の羽衣を隠してしまう。天に帰れなくなった天女は若者と結婚する、という話だ。 これが「ディーバ」の原型だ。 天女はディーバで、羽衣はテープだ。 この昔話は世界中に様々なバリエーションがあるらしい。例えば「フィオナの海」という映画があったが、あれはアイルランドの民話がモチーフになっていて、そこでは天女は海から来るアザラシの精で、羽衣はアザラシの皮だった。 つまりこの物語は、大昔から世界中で“恋愛”という感情を盛り付け続けてきた、由緒ある器なのだ。 こういう器はシンプルで強い感情を作るための、大きな助けになる。 ジャン・ジャック・ベネックスが、そのことを意識していたかどうかは分からない。だが、こういうシンプルで強い感情の流れを持った物語に映画を盛り付ける場合、細かいディテールの破綻は問題にならない。 昔話というのは、そういうものだからだ。 映像的快楽を最優先する映画を作るとき、古い物語の力を生かすというのは、有効な手段だと思う。
by denkihanabi
| 2004-12-05 03:40
| 映画ネタ
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